日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経 第17回「弁慶の泣き所」

えーっと、そろそろ脱落者続出の予感?
えっ、私? 私はちゃんとリアルタイムで見てますよ。言及する余裕がなかっただけで。(^^;


今回の話は、弁慶の恋物語静御前の帰洛がメインですが、これらはオリジナル話なので取り立てて言及することもないですが・・・敢えていうなら静御前の帰洛って、うつぼのときとパターン一緒やん!二番煎じかよ!(笑)
義経に嫁取りの話」→「一緒に居る女について穿鑿」→「義経の立場を思いやって立ち去る」
しかし肝心の義経の対応はというと、前回はあっさり笑顔で見送ったのに対して、今回は非常に名残惜しそう。うつぼタン可哀想(´・ω・`)


さて、一方で平家はようやく還都の動き。平知盛夫妻が平清盛に出立の御挨拶。平家貞(と思われる人物)が、「だれだれが何日前に出立」と説明しておりましたが、何か出典があるのかな?それとも単なる創作設定か。還都における平家一門の動きを細かく記した史料があるのかな。大したことではないけど、何となく気になった。
だいたい還都における平清盛の動きについての確実な史料はない*1そうだし。


治承四年(1180)11月の還都の動きとしては、


のようです。三々五々に出立したような描かれ方になっていましたけど、結構まとまって出立したんじゃないでしょうかね。平清盛にしても早くに入洛してるので、あんな風にいつまでも名残惜しそうにウジウジはしてなかったのではなかろうか。だいたい、みんないなくなって淋しくなったのも、『玉葉』によれば「一人も福原に残るべからずと。」という命令が下されたそうで、それってたぶん平清盛の命令だろうから違和感の残る演出だ。いや、もしかすると表では強がったけど、裏では・・・ということなのか。でもそこまでの描写はなかったよなぁ。
「やがて清盛様はこれまで我が手にされていた政を法皇様へお返しになられ」というナレーションもあって、いかにも夢破れた敗残者という一方的なイメージしかみえてこない。


さらに後白河院政の復活は、それまで院政を執っていた高倉上皇が翌治承五年(1181)1月14日に死去したことによるもの。しかもそれは平清盛による制限つきという。*2
ただ、このとき高倉院の中宮徳子(建礼門院)を後白河院に嫁がせようという無茶苦茶な話が平清盛・時子夫妻によって計画されたということで、治承三年(1179)のクーデター以来強引一方だった平清盛もここにきて妥協的になったと言えるように思います。


鎌倉では屋敷普請が進められ、源頼朝のもとには町づくりの図面が・・・しかしよく見るとこの図面がまるで子供のイタズラ書きのようでひどい!(笑) 御家人の屋敷は北条・三浦・畠山・千葉・比企・八田・大庭しか書かれていないし*3鶴岡八幡宮から南に真っ直ぐ延びる若宮大路もない。


あとは南都焼き討ち。興福寺東大寺が焼亡し、特に大仏が焼け落ちたことで有名っすね。治承四年(1180)12月28日のこと。


今回もまた、話の順序が前後するうえ、創作話が絡んでくるので流れを脳内補完しなければならないのが厄介ですね。