日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経 第15回「兄と弟」

今回はひさしぶりに主人公が主人公らしく扱われておりました。これまで主人公の影がすっかり薄まっていたので、それを取り返すべく過剰に持ち上げる演出をしたものと思われます。ただ、それが誇張くらいなら笑えるのですが・・・富士川の戦いと頼朝・義経対面の時系列が逆転しているのは、既に*1分かっていたことではあるものの、制作側の都合が透けてみえちゃうとやはり文句のひとつもいいたくなります。


さらに今回はオリジナルエピソード総動員で義経を美化しまくり。義経がどんどん控えめで物わかりがよい優等生に仕立てあげられてゆく。『北条時宗』以来の伝統*2なんですが、正直げんなり。この路線でゆくと先々で齟齬がでてくると思うが、そこでまた無理矢理な解釈で押し通すことになるのだろう。先例から察するとそうなる。
どうせなら野心をギラつかせているようなキャラクターの方が、むしろ魅力的に描けると思うのですがねぇ。


さて、ドラマへの不満はこのくらいにして、考察をいたしましょう。メインの楽しみはなんといってもこちらですから。


言うまでもないことですが、富士川の戦いは治承四年(1180)10月20日。そして義経が頼朝と対面したのはその翌日10月21日のこと。


対面の場面、頼朝の陣中にいた面々を推定。頼朝と向かって左側に並ぶ四人は、北条時政北条義時・和田義盛・安達盛長の順。右側二人は土肥実平・三浦義澄の順。
三浦義澄のみは、名も呼ばれず、その後の場面にも登場しないので比較ができないので、あくまで出演キャストによる比定。他に可能性があるのは(北条)平六時定だが、こちらはこの後の場面で登場した人物のほうがしっくりくると思うので、消去法で三浦義澄だと思う。
太平記』でも思うのですが、このような一堂に会して登場する場面での人物推定はなかなか難しい。字幕が出るならともかく、そうでなければ役者やセリフ・座次・キャストなどから推定する他ないが、人数が多くなるとキャストではその他大勢扱いになるので非常に困難になる。
ま、人物比定が出来たからといって特に意味があるってことは、ほとんどないわけですが。


富士川の戦い後、追撃を進言する北条時政。佐竹氏を懸念して追撃に反対するのは土肥実平か。和田義盛が佐竹氏討伐を優先する旨を進言。そしてそれを採る頼朝。
吾妻鏡』では頼朝が追撃を命じて、千葉常胤・上総広常・三浦義澄らの長老有力者が佐竹氏討伐優先を諫言して押しとどめるという話になっています。
長老らが登場しないのは仕方ないが、何故頼朝に追撃を言い出させなかったのだろう。あくまで慎重な頼朝像を守るための演出だろうか。


頼朝の鎌倉帰還に伴い、義経も鎌倉へ。義経に宛われた館はまたもやあばら屋で、平泉のときと同じシーンが繰り返されることに(笑)。
それはともかくとして、実のところ鎌倉における義経の館というのは伝説を含めても全く伝わっていない模様。時代考証を担当している奥富氏の著書『義経の悲劇 (角川選書)』では、頼朝の住まう大蔵御所に部屋住みの身として一棟を与えられていたのではないかと推測されている。その可能性は非常に高いように思う。もし館がどこかにあったならば、あれだけの有名人でありながら伝承もないのは不自然であるし、のちに腰越から京へ追い返された際に所領が没収されているが、館が接収されたとか破却されたとかの話もない。
さてドラマでは、「海辺にも近い、山側」の館ということだが、いったいどの辺りを想定しているのだろうか? 当てはまるとすれば、西側の長谷・甘縄のあたりか、あるいは東側の名越近辺か。


館への案内および、北条政子のお忍び視察に同道していたのは北条平六時定の模様。北条時政の従兄弟で、北条家の惣領だったのではと推測されている人物だ。


また長くなってしまった。ひとまず続きはまた後ほど。