日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

平清盛の闘い/元木泰雄/角川叢書

平清盛の闘い―幻の中世国家 (角川叢書)

平清盛の闘い―幻の中世国家 (角川叢書)

  • 第1章、王権下の清盛
  • 第2章、後白河院との対峙
  • 第3章、王権への挑戦
  • (つづく)


まだ途中ではありますが、随所に刺激的な解釈が散りばめられていて飽きません。ひとつひとつ取り上げられればとは思うのですけど、さすがに骨が折れるので、最も気になる平清盛白河院落胤問題にだけ言及したい。


以前にもこの問題について言及していますが、それは下記2冊で、参考までに挙げておきます。


そして本書は、落胤説を採っているのですが、高橋昌明氏の言う官位昇進スピードの異例さは否定。さらに昇進自体は院近臣としての奉仕によるもので、父平忠盛の恩恵も受けているため若年時の昇進が迅速になっており、それは他の院近臣家に共通するものと指摘。
この辺は非常に納得がいき、賛同できます。特に個々の昇進をみれば、斎院の御給だとか成功による褒賞だとか、それ自体が落胤とは縁のない、受領として院近臣としての立場によるもの。うすらぼんやりと同じようなことを考えていた私にとって、この論理をハッキリと示してもらえたことは非常に嬉しいことです。


ここまではいいのですが、問題は平清盛の内大臣昇進をどのように捉えるのかということ。
本書では、任大納言ですら諸大夫層にとっては異例のことであること、さらに内大臣は先例のない破格の人事であることを指摘。この点は五味文彦氏も指摘していることですが、五味氏はこの内大臣昇進をすぐに名誉職の太政大臣へと昇任するという含みがあったので、大きな反対もなく了解が得られたのではなかったろうか、と推測されている。
それに対して本書では、当時大臣就任が上級貴族でも容易でなく、天皇家と直接の外戚関係もなかった*1清盛の任大臣が貴族社会を納得させられる理由は落胤説しか見当たらない、としている。
そう言われるとそのような気もしてくるのですが、やはりどこか素直に頷けないところもある。特に本書でも指摘されている「内大臣昇進が強引な形でなされた」、というのは貴族社会に納得させられるものでなかったということではないのか。矛盾を感じるところである。


ちなみに、この仁安元年(1166)という年は、7月に摂政近衛基実が亡くなり、それを受けて左大臣松殿基房が摂政に、右大臣大炊御門経宗が左大臣に、内大臣九条兼実が右大臣に、そして権大納言平清盛が内大臣に、という横滑り人事。翌年就任した太政大臣は約2年空いていた。
家格の面からみれば破格の昇進ではある。一方で人事の動きからみれば、内大臣昇進時に先任大納言を3人超越あるけれど、それほど意外な人事といった感じはしない。

*1:平清盛が内大臣に就任したのは1166年。徳子入内は1171年。