日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経 第14回「さらば奥州」

さーて、今回もかっ飛ばしていくよー。みんな付いて来られてるかーい? なんか、この辺りで脱落者続出の予感。


さて前回*1は治承四年(1180)5月に起こった以仁王源頼政の挙兵まで描かれましたので、今回はその続きから。
といっても、合戦はあっさり終了。橋合戦の名場面も無し。まあ、こんなもんでしょうかね。あんまりやりすぎると、ただでさえ存在感の薄い主人公がますます・・・。
ただ、不憫なのは以仁王。前回も出番少なかったですが、今回は流れ矢に当たって落馬するシーンのみだけなんて。


さて、6月2日に強引に行われた福原遷都。いままでもたびたび福原遷都が準備なしの唐突なものという言及はしてきましたが、ドラマでも強引さ無謀さが描かれていました。しかし、いままでの夢の都づくりという設定はいったいどうなったのやら。どうも『義経』はドラマ内設定の矛盾が多いような気がしてならないんですけど。もうちょっと頑張りましょう。


その福原遷都の件で、二位尼時子が諫言しておりました。これはいままで平重盛が果たしてきた役割。
実際問題、この強引かつ性急な遷都は平清盛の独断で行われた可能性が高い。治承三年のクーデターといい、平重盛の死後それまでにはない強引さが目立つようになったのは、それだけが理由でないとしても、やはり長男平重盛の死去が影響しているように思う。『平家物語』のような諫言癖の聖人君子、というような人物でなかったとしても、父の行動をある程度掣肘する役割を果たしていたのではないだろうか。
さらにいえば、父と長男は対立することも多い。この時代でも、摂関家藤原忠実藤原忠通が、源為義源義朝後白河院二条天皇もそうだ。それは長男(嫡男)がそれなりに厳しく育てられるせいか、父の言いなりにならず、そこから対立へ発展するというパターンだ。そこまで対立することはなくとも、意見の違いくらいは出てきてもおかしくない。
そんな平重盛死後、彼に代わるような人物はいなかったのだろうか。経盛・教盛・頼盛らの弟たちは影が薄い。三男平宗盛は重盛より9歳も年下だ、荷が重かろう。
平清盛晩年の強引さ性急さが、周囲の反発をそして平家の滅亡を招いたとするならば、そうなった原因として平重盛の死は第一に挙げられるべきものだと思う。


今回は長くなったので、続きはまた後ほど。(^^;