日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経 第13回「源氏の決起」

いよいよ治承・寿永の内乱はじまるよ!ってことで、アバンタイトルで諸国に散らばる諸国の源氏を紹介。頼朝・義経らの叔父で源為義三男の志田義広まで紹介している。どうせ本編には出てこないんだろうけど。


平宗盛源頼政の長男仲綱所有の名馬を欲しがり、渋る仲綱から取り上げて、しかも馬の名を「仲綱」と変えて辱めるという、『平家物語』でも有名な横暴エピソードが描かれました。平宗盛はもう何というか救いようのないアホキャラになっています。ご愁傷様です。
さて、この話はもともと源頼政挙兵を理由付けるためのエピソードだと理解していますので、それを採用したということで、従来と変わり映えのしない怨恨説*1かと思いきや、死に花を咲かせんとする源頼政の気概もスパイスとして追加されておりました。
あー、それとやはり「家継」は平宗盛の側近のようです。平宗盛の命令で「仲綱」に鞭を打っておりました。(w


平家を倒すために源頼政は、まず不遇の皇子以仁王をけしかける。そして挙兵を促す以仁王の令旨を源行家に託して、諸国に散らばる源氏へ伝えさせる。
以上、反乱に至る経過でした。昔からのありきたりなストーリーですけど、それだけ単純化されて分かりやすいということなんでしょう。
ただし、源頼政が乱を主導したという形跡は見あたりません。最近では王権論の立場から、以仁王さらに一歩進めて後白河院が反乱に絡んでいたとする説が呈示されていたりします。
源行家が任じられた八条院蔵人。その八条院後白河院の妹で以仁王の養母、さらに広大な荘園を支配している。このラインを中心に反平家の動きが起こった可能性が指摘されている。今年2月に読了した『義経の登場―王権論の視座から (NHKブックス)』にもそのあたりの事情が記されており、私も言及*2しています。
だいたい、源頼政が「我ら源氏」と連呼していましたが、彼ら親子が挙げる名はいずれも遠縁の河内源氏源頼政知行国主となっている伊豆の頼朝はともかく、他の連中とそれまでどれだけ繋がりがあったのか。
それに平治の乱を思い起こせば、源頼政源義朝に与していない。それは裏切りなどではなく、源氏といってもかなり遠い関係で、しかも謀反人となった源義朝に与する義理は無かったのだ。物語の世界では二項対立を設定して説明すると分かりやすいし面白いという効果があるので、平治の乱から治承寿永の内乱までを源平対立として捉えるが、まあ実際世の中なんてそんな単純なもんじゃないんですよね。


さて、鳥羽殿に幽閉されている後白河院。はやくも丹後局と懇ろになっているようですけど、夏木マリじゃなぁ・・・いくらなんでも年食いすぎ。これから皇女を儲けなくちゃならないんだから!
いやまぁ、それはさておき、両人の会話から後白河院が反平家の企てに関与していることが伺える。なんか中途半端に王権論の立場を取り入れてますね。『2005-04-03 - 登録選手』さんが、「何で知ってんだ?」と疑問に思われておりますが無理からぬことです。


諸国の源氏に令旨を届ける源行家。まずは伊豆へ。源頼朝はいつの間にか北条政子と結婚している。北条時政もいつの間にか頼朝べったり(笑)。
以前にも北条邸に来ていた近隣の武士堀親家・天野遠景・仁田忠常の三人衆がまた来ている。今回は頼朝の挙兵で彼らが活躍するのかな? 佐々木四兄弟の出番は無し?


次は木曽義仲清水義高キター! よくわからないが、叔母巴御前の手元で厳しく育てられていることになっている。あと義仲の乳母夫である中原兼遠らしき人物が出てきた。今後、息子の今井兼平・樋口兼光なども出てくるんだろうか?


さらに平泉にまで来ちゃった源行家。そのような史料は軍記物にもないようで、番組オリジナル設定でしょう。主人公の義経のもとに来ないんじゃ不憫ということで、わざわざ平泉にまで行くことになったものかと。ご苦労様です(笑)。


さて、一方京都では早くも以仁王令旨のことが平家に知られ、以仁王追捕が命じられますが、まだ平家は源頼政関与を知らず、源頼政が先手を打って以仁王園城寺へ移す。ちなみに園城寺は、義経の同母兄乙若こと義円の修行している寺。この戦いのとき、どのような動きを見せたのかはサッパリ分からんようですけど。
源頼政は館に火を放って園城寺へ向かいますが、炎をバックにした頼政入道は非常に不気味。思えば頼政はこのとき77歳。鵺退治伝説を持つ老武士は平家にとっても不気味な存在であったかもしれない。


源頼政の反乱関与を知った平家一門。平知盛平重衡は兄平宗盛をくちぐちに責めたてますが、ここで平宗盛が言ってやります。
「そ、その方ら。私のせいだと申すのか!」
平宗盛800年の想いが、いまこの台詞に結集されている・・・かもしれない。


最後に、今回は話が錯綜しているようなので、ひとまず治承四年(1180)4月〜5月の出来事を時系列にして整理してみよう。


平清盛は5月10日の上洛時にすでに以仁王の陰謀を掴んでいたとも言われます。
木曽に令旨が届くのは不明ですが、五月初めあたりか。そこから平泉へ(笑)となると、五月半ば過ぎですかねぇ。
それにしても5月の(と思われる)時点で、平泉の情報キャッチは早すぎるような。頼朝の挙兵は8月だし、ましてや木曽義仲の挙兵は9月。まだ令旨を受け取ったばかりの段階で、既に密やかな動きですか、うーん。

*1:怨恨説というと本能寺の変における明智光秀の動機にもされたりする、至ってオーソドックスな理由付け。

*2:義経の登場/保立道久/日本放送出版協会 - 日本史日誌