日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

太平記 第10回「帝の挙兵」

先々週放送分。
主上御謀反ですな。元徳三年(1331)五月に始まる元弘の変。日野俊基榎木孝明)・文観(麿赤児)・円観(上原秀雄)ら帝の側近衆がサックリ逮捕されました。


一方、鎌倉では長崎円喜フランキー堺)が反長崎派を根絶やしにせんとし、襲撃を受けた佐々木道誉長崎円喜長崎高資西岡徳馬)の元へ出向いて命乞い。這いつくばる惨めな道誉。それを冷ややかに眺める高資。満足気に頷く円喜。長崎親子の悪役ぶりここに極まる感アリ。
だがしかしこの話は創作。変当時の佐々木道誉は、首謀者のひとりである公卿北畠具行を京から連行し、途中領内の近江で幕府の命により処刑しているのだ。
それにしても何故、日野俊基は鎌倉で処刑なのに北畠具行は近江の片田舎*1で処刑*2なのか。それだけ幕府としても日野俊基を重要人物として見ていたということなのだろうけど。


そしてその日野俊基の処刑シーン。鎌倉葛原岡での処刑をお忍びで見に来た足利高氏真田広之)。頬かむりに編み笠という、いかにもな変装姿(笑)。見物人の中に高氏を見つけた日野俊基はにこやかに微笑み、逍遙と死に臨む。俊基カコイイ。


時は進んで八月。元弘に改元されたが、幕府は認めていない。幕府は都に兵を送り、後醍醐天皇片岡孝夫)は京都を脱出。息子の護良親王堤大二郎)と宗良親王(八神徳幸)を頼って比叡山へと向かう。正確には両人とも還俗前なのでそれぞれ「尊雲法親王」「尊澄法親王」であり、両人とも剃髪してないのがやはり気になってしまうね。で、当時は尊澄法親王天台座主を務めておりました。
なんだかんだで、比叡山にも南都にも拒まれた後醍醐天皇笠置山へ。


鎌倉では対策をめぐって評定が行われていたが、出家隠居したハズの金沢貞顕児玉清)が何故か再登場、剃髪もしてない。そういえば長崎円喜も剃髪してないし、『太平記』ではその辺は無頓着なようだ。それでいて二階堂道蘊(北九州男)は坊主頭ですけど。


そしてこの事件の最中である九月に足利貞氏緒形拳)がひっそりとお亡くなりになったところで次回へ続くのでした。

*1:●追記●近江柏原は佐々木道誉の本拠とのこと。→佐々木導誉/森茂暁/人物叢書 - 日本史日誌

*2:昨秋、滋賀県にある北畠具行の墓を訪れてきました。→近江美濃編/1日目/米原町・山東町 - 日本史日誌