日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経 第12回「驕る平家」

さて昨日放送分ですが、すでに『夜盗虫の朝寝坊』さんが昨日今日とに渡ってかなり力を入れて言及されている。


ムムム・・・私も負けていられませんぞ!とリキんでみたものの、ひととおり言及されてるので私の出る幕なしかな、と直ぐさましおしおのパー。取りあえず付け加えることでもないかと、録画を見返す。


んー、オープニングのキャストに出てきた「家継(伊藤聡)」って誰だろう? 平田家継のことのような気がするんだが、親父の平家貞(と思われる人物)も諱でしかキャストに出てこないし。推測が正しければ、親子揃ってなんと不憫な扱いだろう(涙)。
それで、一体どこに出てきたのだろう。当てはまりそうなのは、平宗盛が白拍子を招いて祝い酒と洒落込んでいたとき脇に控えていた武士か。


静憲法印登場しましたね。何の説明もないけど、この人は藤原信西入道の子であり、あの鹿ヶ谷の陰謀は静憲の山荘でのこと。平清盛との因縁もそれなりにある人物。
そういえば永井路子の小説『絵巻 (角川文庫)』で静憲が取り上げられていたっけ。思い出したのでちょっと読んでみると、後白河院の使者として平清盛と対面した場面がこちらでも描かれている。小説とドラマで比較するのもアレですが、こちらの方が話がすっきりしていて分かりやすい。
それからこれを読んで、鳥羽殿幽閉によって後白河院丹後局が結ばれるということを思い出した。この事件によって、丹後局の夫で院近臣の平業房は伊豆に配流となり*1、その一方で丹後局は幽閉された後白河院のお世話をしている間に懇ろになっちゃった、という、まー、平業房としてはやるせない話なんですけど(涙)。 ともかく、そろそろ丹後局登場っていうことですね。


最後に、治承三年のクーデターで解官された公卿の面々が気になる。ナレーションでは39人が流罪といっていたけど、流罪は一部で解官39人の間違いじゃないのかな?
取りあえず全ては追い切れないので、『公卿補任年表』で現任公卿の解官だけ挙げてみる。


松殿家の基房・師家親子に、基房室の兄弟にあたる実綱。他はどういう関係なのか分からない。院に近かったための解官か。取りあえず、藤原師長はあの悪左府藤原頼長の息子。保元の乱の後、折角ここまで昇進したっていうのに勿体ない。何事もなく勤めあげていれば、子孫もそれなりの家格を保てたかもしれない。
あと、注目すべきはこの解官で平家一門の現任公卿が増えていないこと。平宗盛権大納言を辞したままであり、当時は権中納言平時忠平頼盛、それに参議の平教盛の3名のみ。
代々「日記の家」と呼ばれる実務官僚であった高棟流の平時忠は別として、平家一門は儀式を取り仕切る実務経験を欠いていたために公卿会議には参加せず、親平家公卿を通して発言権を確保していたそうです。まるで幕末の薩長の藩士たちのような手法。だからこのときも反平家公卿を追い出すだけで、自分たちがそれに取って替わろうというのではなかったのでしょう。その代わりに大量の知行国をゲットしてますけど。

*1:結局殺されている