日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経 第11回「嵐の前夜」

前半の奥州編は架空話なので、特にこれといって取り上げるものもなく。ドラマとしては結構言いたいことが多いんですけどね。上戸彩を平泉に来させたのは何だったのか?とか。どういう意図があったのか気になるところです。


さて、後半の京都編。時は安元二年(1176)でスタートです。
3月4日に行われた後白河院五十の賀。この年で後白河院も数え年で五十歳というわけです。このときの宴において青海波を舞った維盛・資盛兄弟は光源氏*1に喩えられたそうで、ドラマ内でも舞い踊る二人の姿がチラと映りました。平家の奥方衆の話題にも出てきましたね。
「青海波」というと義経の愛馬の名でもあり、先週*2それを書いてもいたのですが、愛馬がもう一頭いたのを忘れておりました。「大夫黒」といって、屋島で戦死した佐藤継信の供養を頼むため、地元の僧にこの愛馬を贈ったそうな。


早くも亡くなる建春門院。7月8日のことです。中江有里さ〜ん。・゜・(ノД`)・゜・ 「平家と後白河法皇とを取り持っていた大切な御方」という説明があったのがせめてもの救い。
そしてここから平家と後白河院の関係に変化が表れてくるのだが、五味文彦氏の『平清盛 (人物叢書)』では、その年のうちに影響が表れたこととして、高倉天皇の存在が不安定になったことと、人事に後白河院の恣意が見られることを挙げられている。高倉天皇にはまだ皇子がおらず、後白河院の子(高倉天皇にとっては弟か)を猶子としたり、後白河院の遊女腹の皇子が参内するとかいう噂がながれたり、といったことがあったという。また人事の件では、後白河院の寵臣が平知盛ら位階が上の候補者を差し置いて蔵人頭に任命されたという。


これらちょっとした亀裂が翌年の鹿ヶ谷の陰謀へと繋がっていくのですが・・・この事件の前提となる延暦寺の強訴、そして後白河院から平家に命ぜられた延暦寺攻撃の命令などの説明は全く省かれてしまっている。さらに肝心の謀議のシーンは一瞬で、西光・俊寛・平康頼・藤原成親・成経らはキャストに名が見えるものの、密告者多田行綱の出番は無し。『炎立つ』の時よりあっさり感。
で、その一方で平家一門の評定に時間を割いている。藤原成親の助命を嘆願する平重盛。それもそのはず、この事件で妻の実家を失った彼の立場は揺らぎ、左大将を辞している。そして今後は平宗盛が台頭してくることになるわけだ。
それにしてもこの事件、本当に謀議なるものがあったのかどうか。平家に対する政治批判程度か、とはいえ武力も絡んだ話のようだから正中の変並みのお粗末な計画といったところか。


早くも治承二年。この年末にのちの安徳天皇が誕生します。

*1:源氏物語において、光源氏と頭中将がこの青海波を舞っている。

*2:義経 第10回「父の面影」 - 日本史日誌