日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経の元服に関連して

http://d.hatena.ne.jp/andy22/20050310#p1』さんから、昨日*1記した義経の烏帽子親についての件で言及を受けました。
そういえば、話の紹介はしたけれど、自分の見解は全く書いていなかった。(^^;


まず私の見解から述べますと、熱田大宮司家が義経元服に関与した可能性はかなり低いのではないかと思います。根拠たるのが信憑性に問題のある『義経記』という点、さらに烏帽子親・烏帽子子という関係であればその後も何らかの係わり合いがあると思われますが、そのような話を聞いたことはありません。*2
それと、正室の実家が側室の子の烏帽子親となるのか?と呈された疑問にも素直に頷けます。ただ、元服の事例には全然詳しくないのでこの点についてはあまり深入りは出来ませんが、可能性が低いことだけは確かでしょう。


それと、とりわけ興味深かったのが以下の指摘。

義経に烏帽子親がいなかった」とされるのは、彼が、実質的な後ろ盾が何一つなかったという、社会的なイメージなんだろうと思うのだ。
(中略)
とりわけ、現実的京都の社会で、彼の後ろ見となってくれる人物がいなかったということなんだろうと思うのだ。

乳呑児のとき父が討たれ、寺に入るため幼くして母と別れた義経が、その後奥州・鎌倉・京都・また奥州と遍歴したのは、そう考えるとなにやら自分を受け止めてくれる庇護者を求めてのものだったのかもしれない・・・と思った。
出家が規定路線の京都社会では、元服する彼の庇護者となりうる人物は居まい。継父一条長成とて京都社会に生きる人であるからにはその意思に関わりなく庇護者とはなれないだろうし。
しかし出家していれば話は別だと思うのだが、今更ながら義経は何故鞍馬寺を出奔したのだろうか、という疑問が浮かんだ。出家するという選択肢はなかったのか。
やはり従来いうような平家への復讐が念頭にあったのだろうか。あの時点では、義経が奥州に入ったくらいで事が成就するとは思われなかったろうが、そこはそれ考えるより行動の人・義経らしくはある。

*1:義経 第9回「義経誕生」その3 - 日本史日誌

*2:といっても、私の狭い知識・情報網から漏れているだけという可能性もありますが。