日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経 第9回「義経誕生」その2

今回は1話まるまる奥州下りとなりました。さてこの奥州下りですが、ハッキリとしたことが何らわからない。まずその時期、何年の何月に出立したのか。そして期間、奥州に辿り着くまでどのくらいの期間を要したのか。経路、どのようなルートを採ったのか、東海道東山道北陸道か、陸路か海路か。
こうした基本的なことでさえ確実なことは分からないので、後世の物語である『平治物語』や『義経記』などを参考に推測するのが限界。『平治物語』『義経記』も或る程度の事実を反映しているかもしれないが、それがどの程度なのか見極められないことには何ともね。
そんなわけで、ドラマへのツッコミも『平治物語』『義経記』に基づかざるを得ませんがその点はご容赦をば(w


番組冒頭、『腰越状』における、都を出てから奥州に至るまでの状況を回想した記述を紹介していました。

土民百姓等に服仕せらる

この部分はいままで「義経が人々に働かされた」と解釈されてきたが、そうではなくその逆で「人々の奉仕を受けた」と『義経の登場―王権論の視座から (NHKブックス)』で指摘されている。
番組では「人々と共に働いた」として、なんだかどっちつかずの解釈に逃れていた。
ともかく、そんなわけで「義経は苦労したんだよ!見逃せないよ!」とばかりに煽っておきながら、肝心のドラマはというと・・・まさかあんなアッサリしたものになっていようとは。(^^;
つーか、あんなご都合主義でいいんですかね。平家の追っ手とやらも大した障害になってませんし、もう!


それはさておき、本編の考察といきましょう。
相変わらず承安元年(1171)なのはともかくとして、既に第7回*1の時点で冬になっているハズなのだが、あくまで秋だそうな。しかし映像は秋というよりむしろ初夏っぽいような。


家来第一号となった喜三太。喜三太といえば土佐坊昌俊の襲撃を受けた際の活躍ですが、その元ネタは『義経記』。彼は『義経記』が生み出したキャラクターなんでしょうかね。


相変わらず後手後手の平家。平重盛平宗盛が大騒ぎして追捕を命じますが、遮那王出奔に対して平家方が何らかの処置をとった形跡は見あたらない。出奔時期がハッキリしないくらいですからね。歯牙にもかけられない、忘れられた存在だったんじゃないだろか。そう考えると重盛らの言動がより一層滑稽なものに見えてしまう。(^^;
あと、気になったのが「追捕」の発音。重盛は「ついほ」と言っていたが、「ついぶ」じゃないのか? 現代ではどちらでも構わないみたいだけど、当時はどうだったのだろう。


(つづく)