徳川将軍と天皇/山本博文/中公文庫
- 作者: 山本博文
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2004/11
- メディア: 文庫
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とりあえず読んだところまでの要点列挙。
- 徳川家康の征夷大将軍就任が、関ヶ原の戦いより2年半後となった理由として、戦後処理が完遂していなかったこと*1。さらに関ヶ原の戦いをあくまで豊臣家を守る大老としての立場で戦ったので、戦後処理によって自らの地位を固め、周囲から勧められることによって重い腰をあげるというポーズが取りたかったのでは、と指摘。
- 将軍宣下御礼の参内を家康があっさりとしたもので済ませたのは、既に実力と声望を獲得していたためデモンストレーションを行う必要がなかった、とする。
- 朝廷側で将軍宣下を推進したのは納言クラスの取り巻き公卿達「昵近之衆」で、彼らは天下人の意を忖度して動くことによって覚えをめでたくし、利益を得ようとしたのであろう、とする。
- 徳川秀忠の将軍宣下御礼の参内は諸大名を引き連れて威勢を示したものであり、それは家康と違ってデモンストレーションをしないと威光の誇示ができないから、とする。
- 秀忠および家光の前半期は、伏見城こそ政務を執るにふさわしい城という観念があったようで、秀忠の上洛は参内より政務が主目的であったかもしれない、とする。参内が後回しにされたのはそのためではないか、と指摘。
- 後水尾天皇の譲位は五摂家でさえそれを知らされなかった突然のもので、それ以来江戸幕府は「昵近之衆」優遇から摂家優遇に朝廷統制を切り替え、秩序の乱れた朝廷の体制再建を図ったとする。
・・・と、ここまで書いてきたが、もう限界。しかもまだ半分。この方式はちょっと無理やのさ。やはり私にはまったりサックリ掻い摘んで書くスタイルがあっているようだ。なにしろエネルギッシュな人じゃないので、少ない労力で出来ないと長続きしない。(+_+)
とりあえず今日読んだところでは、大老酒井忠清の宮将軍擁立説を考察しているところが何と言っても興味深かったのですが、もう疲れたので説明は省きます。(^^;
*1:島津忠恒の上洛が慶長七年(1602)7月