日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

義経の悲劇/奥富敬之/角川選書

義経の悲劇 (角川選書)

義経の悲劇 (角川選書)

  • 第四章 義経の悲劇の本質を探る
  • 第五章 通じなかった頼朝の願い


第五章は表題と内容が一致していない。内容では、鎌倉凱旋が許されずに腰越から京へ引き返した後のことを記しているが、この時期の義経に対してどのような願いがあったというのだろうか。
本書は、東国に武家政権を打ち立てんとする頼朝と、それを解せず仇敵平家の打倒と源氏の家名および自らの武名を上げることを重視する義経とを対比しており、それは理解できる。しかし、そもそも頼朝は義経に対して己の目指すところを語ったことがあるのだろうか? 鶴岡八幡宮若宮の上棟式での有名なエピソードでは、工匠に与える馬の手綱を曳く役を嫌がる義経に対して頭ごなしに無理矢理命じてるし。
その一方で、義経の行動や報告などから義経の考えや頼朝の意図を理解していないことを頼朝は把握していたはずである。しかし、頼朝からの働きかけといったら平家追討指揮官から外したり、任官要請に応えなかったりと冷遇するのみであり、結局のところ頼朝が義経に対して何らかの願いを抱いたことなど無いといえよう。
そして京へ追い返された時点で完全に見捨てられてますね。鎌倉で謹慎させるなどの方法を取らず、虎を野に放ちながらも所領没収や刺客を差し向けるなどの的確な有効打を浴びせて挙兵に追い込んだのは義経を抹殺するためとしか考えようがない。上総介広常や一条忠頼のように謀殺することがなかったのは朝廷を巻き込ませる算段だったからか。結果的に頼朝は、義経を使って朝廷に守護・地頭の設置を認めさせ、挙げ句に源頼義以来源氏の悲願である奥州制圧まで成し遂げている。歴史の流れだけ追えば、すべて頼朝の陰謀の如く映るのだが果たして・・・。
個人的妄想を突き詰めると、頼朝と義経がぐるになって一芝居打ち、奥州藤原氏を滅ぼしたあと義経は頼朝の手配で蝦夷さらには大陸へ渡る・・・なんちゃって。