日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

歴史読本11月号 関ヶ原合戦前史/新人物往来社

歴史読本 2004年 11月号

歴史読本 2004年 11月号

実は昨日読み終わってました。(^^;
全体通してみると興味深い見解が2つ。

岐阜城の山頂部は戦いのためのものでなく城主の私的な居住空間だった。このことに留意していないと、なぜ関ヶ原合戦の前哨戦で岐阜城があっけなく陥落してしまったのか理解できないだろう。

西軍方の岐阜城織田秀信は、迫り来る東軍方の大軍を木曽川で迎撃するが惨敗し、さらに逃げ戻った岐阜城も翌日陥落している。結果、西軍は岐阜城という重要な拠点を失っただけでなく東軍に大垣城近くの赤坂にまで進出を許すという窮地に陥った。
一般的に、このような事態を招いた原因は織田秀信の未熟さに求められている。秀信は祖父織田信長を倣って籠城戦を避けたといわれ、そのことから数千の兵を擁していたのであるから堅固な岐阜城であれば大軍相手でも長期の籠城が可能だったろう、というのが一般的な見解である。
しかし本書の指摘も尤もなことに思う。現地に行った人はわかると思うが、岐阜城山頂部は平坦地が極めて少なく数千の軍勢を収容するのは厳しい。本書のいうようにそれを考慮しての出撃策だったかもしれない。
しかし何故そのような城であったのか疑問も残る。岐阜は枢要の地であり、歴代城主は織豊系城郭の技術を持っていたと思われる有力諸将が名を連ねていてる。なぜもっと曲輪を拡張したり増やしたりしなかったのだろうか。あるいは大規模な普請に適さぬ山であるなら山麓の城館を大いに拡張整備するとか、あるいは他の地に居城を移すとか*1しなかったのは何故なのか。
城主がころころ替わりすぎたためなのか?それでも織田秀信は8年も領していたが。

岐阜城攻撃に彼ら(福島正則ら豊臣恩顧の大名)の本気をみてはじめて出陣が可能となったのであり、すなわち天下分け目の戦いに乗り出す瞬間に、彼らの協力は絶対不可欠な要件だったのである。
関ヶ原で秀忠隊が活躍した場合、彼らへの恩賞はどれほど減じただろうか。豊臣秀頼を上級権威とする体制は否定されただろうか。

中山道を進んだ徳川秀忠が徳川家主力を率いていながら関ヶ原に遅参、そのため徳川家康は豊臣恩顧の大名らの力を借りて勝利し、その結果彼らを大幅加増せねばならず家康にとって不本意な結果となった、という笠谷和比古氏の見解は結構支持を得ているように思う。
が、上記指摘のように彼らの支持・協力がなければ勝利できなかったことは事実だ。家康が出陣したのは豊臣恩顧の大名らに引きずり出されたもの、との見解もあるがどちらにしても彼らの存在感が大きいことに変わりはない。

*1:関ヶ原後、岐阜城は廃されて南の平地に加納城が築かれている。