日本史日誌

いまは旅行記で精一杯だけど・・・

功名が辻 第8回「命懸けの功名」その2

お市の方万福丸・茶々

万福丸と茶々(淀殿)の名が出てきた。さらに「お腹の子」というのはお初(常高院)になるのだろう。
万福丸ですが、『信長公記』の天正元年(1573)浅井氏滅亡時の記事に、10歳になる浅井長政嫡男が捕らえられて磔にされたとあり、これが万福丸のことを指しているとみられます。問題は天正元年(1573)で10歳ということは永禄七年(1564)の生まれということ。
つまり、永禄十一年(1568)に輿入れしたとみられるお市の方の所生ではなく、側室腹ということになる。この辺どうなんだろうか? そもそも輿入れの時期を『浅井三代記』の云う永禄七年(1564)ではなく永禄十一年(1568)とする説がどのような論理なのかを知らないのでまずはそこをどうにかしないといけないか。

信長の第一次越前遠征

信長の越前遠征は全三回。第二次は天正元年(1573)で、朝倉氏を滅亡に追い込み、第三次は天正三年(1575)で、一向一揆を撫で斬りにしている。成果を挙げた後2回と比べ、初っ端は見事なまでの大失敗。
元亀元年(1570)4月20日に京を出陣した信長は、近江・若狭を経て4月25日に越前敦賀へ侵攻。しかし、出陣の際の名目は、朝倉氏討伐ではなく若狭の国人領主・武藤氏討伐でした。何故このような小細工を弄したのだろう。朝廷・幕府の支持を得られなかったから? 朝倉氏を油断させる作戦?
あっさり天筒山・金ヶ崎の両城を落とせたのは、虚を突けたためのようにも思えますが、数万の大軍で一国人の討伐に乗り出すというのもおかしな話で、作戦意図を秘匿出来ていたとも思えず、作戦であるとすればあまり上策とはいえない。

小豆袋と小豆坂

紐で両端を結んだ小豆袋をお市の方が兄信長に送り、浅井氏の挙兵によって挟み撃ちにされる危機を暗に知らせたという有名なエピソード。
まさかここで信長に小豆坂の戦いを連想させるとは思わなんだ。意味不明でワロタ。以前、お市の方小豆坂の戦いについて語っていたのはこれへの伏線だったのか。
ところで、この小豆袋のエピソードの元ネタってなんだろう?

三段崎勘右衛門を討ち取る

山内一豊が朝倉方の敵将三段崎勘右衛門を討ち取ったとされる戦いは、元亀元年説と天正元年説の二説があります。天正元年説が有力な中、ドラマでは元亀元年説が採られたわけですが、それは原作に拠るものだそうで。
さて、天正元年説がどういった理由で有力なのか、今まではそこまで意識していなかったので、この機会にちょっとお勉強。『山内一豊―土佐二十万石への道 (別冊歴史読本 (22))』所収の太田浩司「浅井・朝倉攻めの功名」がその辺りの事情に詳しいので、これを少しまとめてみます。

  • 山内家に伝わる伝記類のほとんどでは、元亀元年のこととしている。また、地名は久具坂。
  • 山内家関係史料を基に編纂された『一豊公紀』では、久具坂を刀根坂に比定。
  • 滋賀県余呉町福井県敦賀市の間の刀根坂は、福井県側では「久々坂」と現在でも呼んでいるらしい。
  • 刀根坂で朝倉勢を追撃した戦いといえば、天正元年の刀根坂の戦い。元亀元年に刀根坂での合戦は想定出来ない。


とまあ、こんな感じですね。充分に納得がいく。伝記類が何故に元亀元年のこととしたのかが引っかかりますが、まあこの程度のミスならよくあることで片づけられるでしょう。
それと元亀元年は、城攻めと退却戦しかないので、追撃戦は展開されない。それゆえに、元亀元年説を採ろうとすると、開城後の偶発戦をでっち上げなければならなかったりするわけですが。


それにしても、前半最大の見せ場*1である三段崎勘右衛門との死闘および五藤吉兵衛が矢を抜くエピソードが、かくもお笑いコントちっくに描かれようとは。見てるときは笑ってしまったし、顔に刺さった矢を抜くという場面の凄惨でグロテスクな部分を和らげるという意図もあるんだとは思いますが、それでもやっぱり・・・うーん。全体的にコントの色合いが強すぎるんですよねぇ。今回の大河はそういうものだと割り切った方が楽しめるのかも。

*1:中盤は名馬購入譚、終盤は関ヶ原の戦い、だと思います。